上の画像は、今日の「品窮寺(ほんきゅうじ)」(広島市安佐北区可部)の様子です。
昭和20年8月6日、このお寺が可部救護所となりました。
私の祖父の救護班は、8月6日の夜九時に品窮寺に到着します。
以下手記の抜粋です。
「寺内へ入ってみたところ、薄暗い電灯の光を浴びて、ひしめく罹災者は堂内にあふれるばかりで、頭髪は焼けちぢれ黒焦げの頭は男女の区別も判らぬほどに灼け爛れ、肩や背中の皮膚は破れて垂れ下がり、女の人などのアッパッパの模様がそのまま背中に残って一面に腫れ上がったものもあり」
「阿鼻叫喚苦悶の様相は実に地獄絵さながらで何処から手をつけてよいかとまどうほどだったが、班員一同手分けして一生懸命に創傷の処置、救急の治療に努めた」
「なにさま戦時下物資不足の折柄で用意の衛生材料もたちまち不足を告げ、急場の代用として近所の民家から洗い晒しのオシメを寄せ集めて包帯に使用するなどして辛うじて用を達することが出来た。」
「しかし処置中の重傷の人々が次から次と断末魔の苦しみに喘ぎながら息をひきとるのを目の当りに見て、何とも痛ましく気の毒に耐えなかった。」
「負傷者の搬入も一応終日を告げ、全部の処置手当を終ったのが(夜中)三時を過ぎた頃で、班員一同さすがに疲労したので別室に引きあげ着服のまま横になり、暫しまどろむ」
(左画像は「広島県防空医療救護対策要綱」で定められた救護所の標識)
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by sakuraotosyo
| 2008-04-06 23:54
| 戦時下のくらし