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懐かしい品々をご覧ください


by sakuraotosyo
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原爆と医療救護(その3) 可部救護所「品窮寺」_c0148375_23175487.jpg

上の画像は、今日の「品窮寺(ほんきゅうじ)」(広島市安佐北区可部)の様子です。
昭和20年8月6日、このお寺が可部救護所となりました。
私の祖父の救護班は、8月6日の夜九時に品窮寺に到着します。
以下手記の抜粋です。

「寺内へ入ってみたところ、薄暗い電灯の光を浴びて、ひしめく罹災者は堂内にあふれるばかりで、頭髪は焼けちぢれ黒焦げの頭は男女の区別も判らぬほどに灼け爛れ、肩や背中の皮膚は破れて垂れ下がり、女の人などのアッパッパの模様がそのまま背中に残って一面に腫れ上がったものもあり」

原爆と医療救護(その3) 可部救護所「品窮寺」_c0148375_23462347.jpg
「阿鼻叫喚苦悶の様相は実に地獄絵さながらで何処から手をつけてよいかとまどうほどだったが、班員一同手分けして一生懸命に創傷の処置、救急の治療に努めた」

「なにさま戦時下物資不足の折柄で用意の衛生材料もたちまち不足を告げ、急場の代用として近所の民家から洗い晒しのオシメを寄せ集めて包帯に使用するなどして辛うじて用を達することが出来た。」

「しかし処置中の重傷の人々が次から次と断末魔の苦しみに喘ぎながら息をひきとるのを目の当りに見て、何とも痛ましく気の毒に耐えなかった。」

「負傷者の搬入も一応終日を告げ、全部の処置手当を終ったのが(夜中)三時を過ぎた頃で、班員一同さすがに疲労したので別室に引きあげ着服のまま横になり、暫しまどろむ」

(左画像は「広島県防空医療救護対策要綱」で定められた救護所の標識)
# by sakuraotosyo | 2008-04-06 23:54 | 戦時下のくらし
原爆と医療救護(その2) 三篠信用組合救護所へ向かう_c0148375_1950826.jpg
可部に到着した山県郡救護班は、可部警察署長の指揮で、三篠信用組合救護所へ赴くことになりました。

左画像は「広島原爆医療史附図 広島市原爆被災地図」(財団法人広島原爆障害対策協議会刊)の一部です。青丸23が、三篠信用組合救護所の位置です。赤く着色してあるのは延焼した部分、青い線は爆心地からの半径500m毎の線で、青丸23の三篠信用組合救護所は爆心地から1.5kmから2.0kmの間にあることが分かります。

「祇園方面から爆風による家屋の被害がぼつぼつ見られ、新庄橋付近から先は家屋の倒壊焼失したものが多く、三篠あたりからは道路へ電柱の倒れて炎焼しているものがあって、瓦斯と熱気のため息が詰まりそうで行く手を阻まれ、それ以上前進がむつかしい」

「祇園青年学校救護所まで引返し、そこで救護を開始したところ、可部救護所へ直ちに帰ってくるようにと連絡があった」

山県郡救護班が、可部救護所に当てられた「品窮寺」に到着したのは、8月6日の夜9時のことでした。
# by sakuraotosyo | 2008-04-03 20:15 | 戦時下のくらし
先日、広島平和記念資料館の企画展「菊池俊吉写真展」を観てきました。
原爆と医療救護(その1)_c0148375_23174684.jpg

原爆投下から二ヵ月後の広島市の様子は戦慄するほど惨たらしく、心が痛みました.
しかしそれでも、取材された医師は「今ごろ来ても、もうなにもない。直後の万分の一もない。」と言ったそうです。

私の祖父が、救護班の医師として、被爆直後の広島へ入ったことは知っていましたが、それについて直接何か聞いたことはありませんでした。
「原爆日記」という文集に祖父が寄稿しているのを見つけましたので、以下抜粋してご紹介します。
原爆と医療救護(その1)_c0148375_22543829.jpg

「この日いつものように診察室(所在地:広島市から50km北の加計)へ出て、診療を始めるべく外来二人目の患者と向かい合って腰をおろした瞬間、突如目も眩むほどの青白い大閃光が眼底を射るほどに煌くとともに、天地を振動する大爆音が轟き、間もなく南方に当り、きのこ雲があがった」

「最初はその当時鉄道工事用火薬庫が山の彼方にあったので、それが爆発したものと思っていたところ、しばらくして小学校教科書や新聞などの半ば黒焦げになった紙片が舞い降りて来た」

「地元警察署から広島が爆撃され被害甚大だから、救護班を招集して即刻救護に出動するよう私(当時郡医師会長)方へ連絡があったので、医療関係の救護班員へ急報して出動方を手配し、直ちにトラックを利用して出発した。炎暑の中を二時間ばかりで可部町へ到着したところ、広島方面から避難民罹災者負傷者を満載したトラックが次々入ってくる」


原爆と医療救護(その1)_c0148375_22431896.jpg

上の画像は救護班のマニュアル「広島県防空医療救護対策要綱」の冊子です。
# by sakuraotosyo | 2008-03-29 22:59 | 戦時下のくらし
明治時代のユーモアー「福引一千題」_c0148375_23585765.jpg

福引とは、くじを引いて、当たれば景品がもらえますので、景品の豪華さに目が行きがちですが、昔は引いた札に書いてある題にたいして、出てくる商品が何で、どういう洒落になっているかを楽しむものだったようです。ちょうど「何々とかけて何ととく」と言ったかんじです。

この明治43年発行の「福引一千題」は、引いた札にかいてある「だい」と景品の「かい」の例が多数掲載されています。
たとえば、「禿頭病」という題に対して、「刷毛」(ハゲ)といったの単純なものから、
「小指のしもやけ」という題に対して「絵葉書」という景品。
「書く(掻く)ところがすくない」
のように、なかなか良くできていると思えるものもあります。
明治時代のユーモアー「福引一千題」_c0148375_093716.jpg

# by sakuraotosyo | 2008-02-26 23:59
大正時代の税金「自家用醤油税」_c0148375_2201412.jpg

今年も確定申告の時期になりました。

画像は大正五年(1916年)度の加計町の納税予告一覧表です。

今日の固定資産税にあたる地租(田租・畑租・宅地租・雑地租)は国税だったようです。
その他の国税として所得税、営業税、「自家用醤油税」があげられています。


大正時代の税金「自家用醤油税」_c0148375_22241572.jpg

「自家用醤油税」というのは、個人の自家用醬油醸造に課税するもので、大正14年まであった税金だそうです。

曾祖母が醤油を造っていたという話を聞いていますので、私の家でもこの税を納付していたことでしょう。
# by sakuraotosyo | 2008-02-16 22:25 | 大正レトロ